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2010年07月27日

現実逃避のための屁理屈

わけのわからないことを書きます。

どうか、真面目に取り合わないでください。
…というより、自分でも今から何を書くつもりなのか、全くわかってはいません。
「そういうことを書くなよ〜」と思われることも書いちゃうかも?…できるだけ気をつけますが。
そんな内容を見つけたら、「あ〜あ」とため息をついて、なるべく放置してください。

くれぐれも、「真面目に取り合わないでください」。
間違ったことをたくさん書きます。
いちいち「それは間違っているよ」と指摘しようとしたら、全文を細かく添削しなければならないでしょう。

本当は、人の目に触れるようなところに書き込んだりするべきではないのでしょう。
「放置してほしい」のなら、人から見えないところで、誰にも知られることなく、こっそりやればいいんですから。
なのに、わざと人の目に触れるところに書き込もうとしているのは、ちょっとした「自罰行為」なのかもしれません。
気持ち悪いことしてすみません。

……でも、どうか、そっと通り過ぎてください。


……ああ、くどくどと言い訳したら、かなり楽になった。
なるほど、わたしは「言い訳がしたい」んだ。
わっかりやすーい(笑)


これでもう、ほとんど気が済んじゃったので、今更頭の悪い与太話を書く必要もない、かな……?

ま、いいか。
人によっては結構気を悪くするようなことだし、根拠もない思い込みだけで書くので恥ずかしいことこの上ない内容だけど、書くだけ書いちゃえ。

……バカだねー、自分。(苦笑)


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テーマ:「民族音楽」と「芸術音楽」の違いは?

(注意…上に何度も書いたけれど、何かをちゃんと調べて書いてるわけじゃないので、恥ずかしい勘違い満載だと思います。それはご了承の上で、それでも読んでやってもいい、と思う人以外はご遠慮いただいた方がいいと思います。また、あちこちでこういう「言い訳」が出てくると思いますが、それが「うざい」と感じる人も読まない方がいいかも。実はこっちの方が「本文」?らしいので)

「芸術音楽」を「民族音楽」と区別してあげつらうようになったのは、いったいいつ頃からなんだろう?
時代状況を適当に推測する限り、「ロマン主義」が台頭するようになった19世紀頃かなあ。
その頃にはたぶん、明らかに「芸術音楽」という言葉は「民族音楽(或いは民謡、俗謡)」という言葉と対置されて、「こっちの方が優れている」というニュアンスで使われることが多かったんじゃないか。

まあ、ほぼ20世紀後半までは、そんな価値観は概ね肯定的に捉えられていたわけだし(自分もそういう価値観の中で育てられたところがある)


実は今、パガニーニの『カプリース』を、生まれて初めて全曲入ったCDを買って聴いているんだけど……
「全24曲」というから、バッハみたいに「平均律で全部の調性」っていう話かと思ったらぜんぜんそんなことなくて、はっきり言えば並び順もバラバラだし、結局シャープもフラットも4つまでしか出てこない。
あー、なんだ要するに、ヴァイオリンの調弦に合わせて弾きやすかったりそれで独特なニュアンスが出るように、と取り計らって調性決めてるんだ。
あ、それから、調性ごとの「色」なんていうのも関係あるかな?
でも結局、それを決めるのもほとんど調弦そのものによる音程ごとの音色の違いだと思うんだけど……?

それにしても……平均律って、中途半端にかじるととんでもない勘違いを引き起こす危険のある代物だったんだ。
「1オクターブを12等分」という、とってもわかりやすい、また「科学的根拠のある」?やり方で決めた音階だから、「どんな音楽にも通用する」ように思い込まれたり……いや、わたしはそう思ってましたよ、実際。

でも現実には、ピアノや電子楽器以外はなかなか「ぴったり平均律」なんて演奏はできないものだし、音階のピッチの問題とは別に、上にも書いたように音程ごとの音色の問題もあるわけで。

あ、それに、最近何かで調べているうちに気が付いたんだけど、バッハの『平均律』って、必ずしも今ある平均律と同じものを指しているわけでもなかったようで。
でも、その理解のとおりにピアノを調弦して弾こうとしたら、1曲ごとに調弦し直しながら弾くしかなかったんだよね、結局。
それじゃ「平均律」の意味がない。

わたしはバッハの『平均律クラヴィーア曲集』とか『インヴェンション』とか、ピアノの譜面まで買って、いずれも最初の1曲ぐらいしか弾けるようにはならなかったけれど「弾いてみたい」とは思っていた。
だから?かどうかわからないけれど、「平均律は偉大だ!」と単純に思い込んでいた。

でも、ここ数年、あちこちの音楽を聴き比べているうちに、「平均律」って実はややこしい話を簡単に済ませるための「方便」「妥協の産物」なんだ、って気が付いてきた。


……あれ?
こんなことが書きたかったんだったか?

これ、前にも似たようなこと書いたな。
以前の論旨を思い出してなぞるだけ、って要するに楽したいだけじゃん。

はいはい、次行ってみよう。(笑)


わたしは「芸術音楽」というものを基本的には「認めない」、というか、わざわざ「民族音楽」と区別する意味を見出せない。

いや、だからといって、音大などで専門的な音楽教育を受けた人のことを否定したいわけでもない。
ただ、そういうことが必要なのは別に「芸術音楽」だから、じゃなくて、いわゆる「民族音楽」だって同じことだ、ということ。
「一子相伝」とか「修行」とか、そういうのは何も日本の伝統芸能に限った話じゃなくて、どこの民族音楽にだって、そうしなければ伝承しきれないものがあったりもする。
それが「文化」のある側面だったりもする。
聴いて楽しみたいだけなのか、ちょっとかじって音が出る一応歌える、という程度にまでできるようになりたいのか、それとも自分にできる限りの高みを目指したいのか。
もちろん、そのどれかが優れていてどれかが劣っている、というわけでもない。
「ただ聴くだけ」の人がいちばん確かな耳を持っていたりもするわけだし、……
いや、いいんですよ。
生き方の違いに優劣はない。


世界がだんだん小さくなってきて、いながらにして地球の反対側でやっている音楽が楽しめるような時代になってきて、その初め頃にある種「指導的な役割」を果たした「芸術音楽」という概念が、徐々に「無用の長物」になりつつあるんじゃないか。


今、パガニーニはやっと最終曲、有名なメロディーとその変奏が出てきた。
くだらないことをごちゃごちゃ書いてるうちに、結局それまでの曲はまともに聞けずに通り過ぎてしまったことに気づいた。

ただ、漠然とした印象だけど、わたしにはパガニーニの曲は「西欧の民族音楽」にしか聞こえないのだ。

たぶん、「民族音楽」を「芸術音楽」と区別する何かがあるとしたら、前者は「特定の聞き手(=民族)を意識した音楽」、後者は「不特定の聞き手に向けた音楽」、と定義して分けられるかもしれない。
ま、その定義も結局は「例外だらけ」になってよくわからなくなってしまうんだけど。
その定義に従うなら、ポピュラー音楽こそが最も「不特定の聞き手に向けた音楽」ではないか。
まあ、そこには今度は「売れる」ということを第一義とする「商業音楽」というモノサシが出てくるわけだけれど。
そうして、それが成り立つためには「芸術音楽」と呼ばれるものの存在はとても大きいんだけど。
民族音楽が民族音楽のままでいたら、ちょうど古い習慣が消えていくのと同じように、音楽は文明化の波に飲み込まれて跡形もなくなってしまっていたかもしれない。
「芸術音楽」という、ある意味わかりやすいものに翻訳されたからこそ、その後のポピュラー音楽(あるいは商業音楽)にうまく取り込まれていったのかもしれない。

まあ「特定の聞き手を意識した」といっても、どんなふうに「特定」しているかによって話はだいぶ違うと思うし。

一部の演歌が「漁師向け」?みたいなことは、いったいどう説明すれば?そもそも、たまたま「海の男」のことを歌っていたり、だから共感できる漁業の人たちにファンが多かったり、ということはあっても、まさかそういう人たち「だけ」のためにそれらの楽曲があるわけではないだろう。

日本の「雅楽」は、近代になってから一般民衆にも開放されるようにはなったけれど、それ以前はどうだったんだろう?

一方、イスラム圏の音楽はとても複雑で、西洋なんかよりも遥かに高度な(?)理論に裏付けられた音で成り立っているもの(それこそ雅楽と同じような位置づけの宮廷音楽とか)もあるけれど、必ずしも理論がわからなければ楽しめないわけじゃないし。
(実は最近「微小音程」とか「微分音」とかいうのが好きになってきた……でも平均律と純正律の区別も果たしてつくやらつかないやら、わからないんだけどさ)

三線の「尺」の音は、民謡や古典を弾く時とポップス系の、それこそ平均律を基準とした楽器と合奏する時とでは、違って当然。
そこには、理屈はない。
「なんとなく高め、低め、ぴったり合ってる」という感覚、かな。
いやもしかしたら厳密に周波数の比率とかで表される何かが、実はあるのかもしれないけど。
先に理屈がわかっちゃうと、「耳がついてこない」ことがあるから注意。

わたしたち……いや少なくともわたしは、西洋音楽にあまりにも規格化されてしまった耳を持たされているので、「民族音楽」を味わいのあるニュアンスまで再現するのは難しい。

けど、楽になったところもある。
「ニュアンス」抜きにすれば、「理屈だけで入れる」。
おもしろくないけど。

わたしは、こうやって(実はぜんぜん筋道が通ってないんだけど)「理屈」みたいなことを書くのは好きだけど、実は音楽については全くの「感覚優先」で、理屈だけでわかっていることはほとんどない。
理屈だけで感覚の伴わない音楽なんて、ちっともおもしろくないじゃん。
(スーパーのBGMは今でもそんな感じに聞こえてしまう…原曲の譜面を打ち込みでなぞっただけ、みたいな…まあ、「BGM」なんて所詮は「音の消臭剤」みたいなもんだから、それ以上の「意味」があっても邪魔なだけなんだろうけど。安っぽいBGM、わたしはいちばんイヤだ)
理屈っぽく見えることを言ってる時は、何か耳に聞こえてて、そこから受け取れるまさに「感覚」そのものでしかないことを、なんとか言葉にして伝えようとしているのだ。
しかも、ほとんど全ての場合、失敗している(苦笑)。
まあ、そんなもんさ(笑)

まあ、音楽は「言語」と同じで、「意味」が伴った時に初めて大きな感覚的「理解」がある、という側面もあるので、もちろん「理屈が伴う」ことは楽しいことが多い。
でもそれも、最終的には感覚が「面白い」と思えれば、の話。
ヒトラーがワーグナーの音楽を独裁の「道具」にした、とかいう話、感覚的にもある程度はわかるけれど、面白くはないのでそれ以上ハマりたくもない。


ヨーロッパを中心とした地域で広く行われてきた、いわゆる「芸術音楽」と呼ばれる民族音楽も、なかなか味わいがあって楽しい。

あーそうか、でも坂本龍一さんが「スコラ」のシリーズで、ベートーベンでもワーグナーでもショパンでもストラヴィンスキーでもなくあえて「バッハ」だったのが、なんだかわかるような「気がする」。

感覚でしかないから、言葉にはならない。
あっ、それじゃ「わかったことにはならない」?

ま、いいじゃん。



コメント大歓迎。

って、最初に書いたのとぜんぜん逆のこと言い出してるじゃん!?

ま、どちらでも。
今はとにかく、論理的に破綻してたり矛盾してたりすることを書きまくりたくって仕方ない。
そんな時もあるの。

……えっ?「いつだってそうじゃん」?

いや、そんなつもりは……


ま、いっか。


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Posted by さとばな at 18:19│Comments(0)音楽全般・雑談
 
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プロフィール
さとばな
さとばな
一五一会伝道者(ケイティクラブ公認インストラクター)、トランスジェンダー(ポストオペMtFバイ)。静岡出身。静岡大学合唱団いぶき卒、中央合唱団研究生を経験。萩尾望都他漫画好き。
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