2010年08月17日
見送る…(お盆関連です)
HDDレコーダ壊れた。
番組表がなくなって録画できなくなった。
……でも、そうなってみると、テレビに時間割かなくてよくなって、日記も書けたりして?
----------------
3連チャンのステージ、とっても「夏らしい」ものだったけど、体ボロボロ。
日焼けってこんなに体力消耗するものだったのか〜。
13日の分が15日頃から出始めて、じわじわと黒くなっていく、わたしの顔。
日焼け止め塗ってさえいなかったけど、塗って油断してるよりも良かったかも?
それにしても、楽しかった。
13日=白花@海音。
エジプトに「発掘」に出かけたサミーさん抜きの3人バージョン。
ジョージさんに代打で三線弾いてもらった。
ジョージさんのやさしい持ち味が存分に発揮され、同時にサミーさんがどれほど一五一会に「合わせる弾き方」をしてくれているのか痛感した。
ともあれ、まともなPAで演奏するのは気持ちいいな〜。
モニターがあるとかえってやりにくい、なんて贅沢なこと言ってちゃダメだよね。
・涙そうそう
・花咲く旅路
・花〜全ての人の心に花を〜
・八ツ手の木
・島人ぬ宝
14日=海音2日目午前中に「凪」が出演するのを見て、彼らのオリジナル曲に一五一会をつけたくなってしまった。
んで、その夜、「じゃっきーcyan」で呉服町夜店市に出演。
読んで字の如く、わたし「じゃっきー」と「cyan」こと石田さんのユニット。
いつも「ノリ一発!」でやってるけど、そろそろ練習しないと合わなくなってきたかも……
(不思議なもので、「ノリ一発」って慣れてくると逆に合わなくなってくるんだよね。そんな時こそ、しっかり練習を積まなくちゃいけないんだけど、……今度はなかなか「予定」が合わない……)
わたしも、やや疲れが出てきていたかも。
でも、お客さん(夜店市も終わりの時間なので少なかったけど)はみんなすごく楽しんでくれたし、カチャーシーも盛り上がった!
・オジー自慢のオリオンビール
・満月の夕
・花(速いバージョン)
・かりゆしの夜(カチャーシー付)
・島唄
15日=浜名湖ガーデンパークにて「Summer Acoustic Festival」、こちらはイベントの趣旨や都合で「1人か2人、4チャンネルまで」ということになっていたこともあり、あやちゃんと2人で「あやあや」として出演。
「あやあや」=会津里花+はなとみ綾。ほら、2人とも「あや」じゃん?(…?)
あやちゃんが余裕のある行程を組んでくれたおかげでぶじ会場に着き、リハーサル〜本番。
トップバッターの「あきひろ」さんの、終戦記念日に向けたメッセージが胸に響いた。
Peso&Risaの心地よいグルーヴ。
大塚友紀ちゃん、久しぶり!
アラスカハイウェイさん、ループを使った演奏に興味津々。
@mikanさん、いつも路上でばっかり聴いてる時よりも百倍パワフル!カッコイイ!
辻幸平さん、ジャンボボディのギターで汗ほとばしるプレイ!
待ってる間にちょこっとだけステージ裏で音合わせしていくうちに、アンサンブルも気持ちもしっかり揃って……
気持ちよかった!
ガーデンパークは野外と言ってもしっかりした設計になっていて、音が拡散して薄まらないようになっている。
なので、ステージ・客席・天井(薄いビニールシートのような材質)の間から、外がちょっと見える感じ。
それは、抜けるような青空を切り取った空間。
その空を通じて、わたしたちのメッセージが、遠いあの人たちにも届くような気がした。
知ってました?実は『声をあわせて』に込められているのは、平和への祈りなんですよ!重たくなるからふだんは言わないけど。
・花
・くにぶん木の花
・The Rose(これは1人)
・声をあわせて
・出会ってくれて、ありがとう。
後半2曲は、会場に集まった少数精鋭?!のお客さんたちもみんな一緒に歌ってくれた。
本当に、「心の手と手がつながる」演奏になったと思う。
そうして、トリはこのイベントの主催者、鈴木健太郎くん!いつも路上でお世話になります。
が、やっぱり@mikanさん同様、路上では忘れそうになるパワフルさ、そうして「小さい音」に耳を澄ますことができる、そのあたりを堪能しました〜。
フィナーレはみんなでステージに上がってあきひろさんのリードで「翼をください」を熱唱!
あっ、いかん、声嗄れるまで歌ってしまった。
あきひろさんのDVDとわたしのCDを交換し、駆けつけてくれたHさんKさんと一緒に帰ることに……帰りのバスもシビアだと思ってたら、Kさんが車で送ってくれることに。
浜松駅ビルの中で、Hさん、あやちゃんとわたし3人でご飯を食べながらガールズトーク(?)に花を咲かせ、東海道線でゆる〜りと帰りました。
んで。
16日は完全に疲れきって、本当になにもしないで……いやコミックを7冊ぐらい読んだか……1日中ぐだーっとしていた。
声、また壊れちゃった……
19日のUHUまでに回復するんだろうか……?
----------------
んで。
やっとタイトルの話に。(ここまでが長げーよ!)
この年になると、少しずつ「生きてる家族・知り合い」と「あっちにいる家族・知り合い」の比率が近づいてきちゃいます。
それだけではなく、はるか昔に亡くなった人たちの気持ちが、少しずつわかるような気がしてくるんです。
それは、場合によっては家族でも知り合いでもない人だったりします。
ここ数日、「お盆ネタ」で日記を書いてる人にわたしは反応しちゃっていましたが……
今この世にいない人の気持ちを思うこと、の大切さ、にふと思い当たりました。
そうして、これは生きている人でもそうだけど、相手の気持ちが「わからない」と、人はその相手に対して「恐怖」を抱くのではないか。
理解しにくい存在である、たとえば「幽霊」は、そんなわけで「恐怖の対象」となります。
生きていても、自分の想像が及ばない、という気がすると、そういう相手に対して気づかないうちに「化け物扱い」してはいないかな?
たとえば「男か女かわからない」とか……
理由もなく恐怖を抱かせられる存在に対しては、なんとかして排除したくなってしまうもののようです。
それが「差別」です。
ちょっとした想像力だけでいいんです。
今生きていない人だって、生きていた頃にはあなたと同じように呼吸をし、心臓が脈打ち、泣いたり笑ったり育ったり老いたりしていたんです。
性別のわからない人だって、あなたと同じように性別だけで生きてるわけじゃありません。
あなたと同じように「人間」として生きています。
同じ人間なので、考えることも大半はあなたと同じです。
違いはほんのわずかなのです。
……いや、それが言いたかったわけじゃなくて。
今生きていない人への想像力を働かせる。
それを、「祈り」と呼ぶのかもしれません。
過去の人を「見送る」祈り。
そういえば、未来に向かっての「祈り」もありますね。
この世界に平和な日が訪れますように。
それはまだ一度も実現されたことがないけれど、人類はばかではないので、何度も何度も同じ過ちを繰り返すのかもしれないけれどいつかは世界中のどこでも戦争の起きていない日、というのがやってくるはず、とわたしは信じています。
その始まりは、やっぱり「想像力」なのかなあ、と思います。
昔の言葉で言えば、「思いやり」。
この言葉は後に「予算」というのがくっついてからはすっかりマイナスイメージの言葉になってしまったけれど、元々は他者に対する想像力を表す、とても美しい言葉だったはずなのに……
歪んでしまったいちばん大きな理由は、「思いやり」が「思い上がり」になってしまうからでしょう。
他者に対していくら想像力を働かせても、完全に相手の気持ちを自分のもののように把握することはできません。
その限界を忘れて「あなたの気持ちはわかる」と言い切ってしまう時、それはちょっと危険な「自己満足」となってしまうかもしれません。
いつも「想像力」には限界がある、と自覚しながら、それでも相手に対して想像力を働かせ続けるのは、実はいささかしんどいことでもあります。
それはまさに、自分の無力さを確認する作業に他ならないわけですから。
だから、自分に自信がない時、余裕がない時は、想像力なんか切り捨ててしまいたくなる、あるいは限界があることを無視したくなってしまいます。
「思いやり」が「いちいち言わなくてもわかる」というもの、というある意味「思い上がり」に近いものにならないよう、コミュニケーションは欠かさないようにしたいものです。
でも、今はもう生きていない人々と、いったいどうすればコミュニケーションが……?
もう、言葉にはなりません。
木の葉の間から漏れてくる日差しとか、
夜電気を消して見つめる蝋燭の炎の揺らぎとか、
寄せては返す波の向こうに広がる水平線とか、
ヤツデの代わりに歩道に植えられているアロエとか、
川を吹き抜けてわたしの頬をかすめていく風とか、
そういったものから想像するしかありません。
そうして、わたしはそれをもとにして、歌います。
いつか、あの人たちに、この声が届くよう。
わたしの歌は、もしかしたら「送り火」のようなものなのかもしれません。
番組表がなくなって録画できなくなった。
……でも、そうなってみると、テレビに時間割かなくてよくなって、日記も書けたりして?
----------------
3連チャンのステージ、とっても「夏らしい」ものだったけど、体ボロボロ。
日焼けってこんなに体力消耗するものだったのか〜。
13日の分が15日頃から出始めて、じわじわと黒くなっていく、わたしの顔。
日焼け止め塗ってさえいなかったけど、塗って油断してるよりも良かったかも?
それにしても、楽しかった。
13日=白花@海音。
エジプトに「発掘」に出かけたサミーさん抜きの3人バージョン。
ジョージさんに代打で三線弾いてもらった。
ジョージさんのやさしい持ち味が存分に発揮され、同時にサミーさんがどれほど一五一会に「合わせる弾き方」をしてくれているのか痛感した。
ともあれ、まともなPAで演奏するのは気持ちいいな〜。
モニターがあるとかえってやりにくい、なんて贅沢なこと言ってちゃダメだよね。
・涙そうそう
・花咲く旅路
・花〜全ての人の心に花を〜
・八ツ手の木
・島人ぬ宝
14日=海音2日目午前中に「凪」が出演するのを見て、彼らのオリジナル曲に一五一会をつけたくなってしまった。
んで、その夜、「じゃっきーcyan」で呉服町夜店市に出演。
読んで字の如く、わたし「じゃっきー」と「cyan」こと石田さんのユニット。
いつも「ノリ一発!」でやってるけど、そろそろ練習しないと合わなくなってきたかも……
(不思議なもので、「ノリ一発」って慣れてくると逆に合わなくなってくるんだよね。そんな時こそ、しっかり練習を積まなくちゃいけないんだけど、……今度はなかなか「予定」が合わない……)
わたしも、やや疲れが出てきていたかも。
でも、お客さん(夜店市も終わりの時間なので少なかったけど)はみんなすごく楽しんでくれたし、カチャーシーも盛り上がった!
・オジー自慢のオリオンビール
・満月の夕
・花(速いバージョン)
・かりゆしの夜(カチャーシー付)
・島唄
15日=浜名湖ガーデンパークにて「Summer Acoustic Festival」、こちらはイベントの趣旨や都合で「1人か2人、4チャンネルまで」ということになっていたこともあり、あやちゃんと2人で「あやあや」として出演。
「あやあや」=会津里花+はなとみ綾。ほら、2人とも「あや」じゃん?(…?)
あやちゃんが余裕のある行程を組んでくれたおかげでぶじ会場に着き、リハーサル〜本番。
トップバッターの「あきひろ」さんの、終戦記念日に向けたメッセージが胸に響いた。
Peso&Risaの心地よいグルーヴ。
大塚友紀ちゃん、久しぶり!
アラスカハイウェイさん、ループを使った演奏に興味津々。
@mikanさん、いつも路上でばっかり聴いてる時よりも百倍パワフル!カッコイイ!
辻幸平さん、ジャンボボディのギターで汗ほとばしるプレイ!
待ってる間にちょこっとだけステージ裏で音合わせしていくうちに、アンサンブルも気持ちもしっかり揃って……
気持ちよかった!
ガーデンパークは野外と言ってもしっかりした設計になっていて、音が拡散して薄まらないようになっている。
なので、ステージ・客席・天井(薄いビニールシートのような材質)の間から、外がちょっと見える感じ。
それは、抜けるような青空を切り取った空間。
その空を通じて、わたしたちのメッセージが、遠いあの人たちにも届くような気がした。
知ってました?実は『声をあわせて』に込められているのは、平和への祈りなんですよ!重たくなるからふだんは言わないけど。
・花
・くにぶん木の花
・The Rose(これは1人)
・声をあわせて
・出会ってくれて、ありがとう。
後半2曲は、会場に集まった少数精鋭?!のお客さんたちもみんな一緒に歌ってくれた。
本当に、「心の手と手がつながる」演奏になったと思う。
そうして、トリはこのイベントの主催者、鈴木健太郎くん!いつも路上でお世話になります。
が、やっぱり@mikanさん同様、路上では忘れそうになるパワフルさ、そうして「小さい音」に耳を澄ますことができる、そのあたりを堪能しました〜。
フィナーレはみんなでステージに上がってあきひろさんのリードで「翼をください」を熱唱!
あっ、いかん、声嗄れるまで歌ってしまった。
あきひろさんのDVDとわたしのCDを交換し、駆けつけてくれたHさんKさんと一緒に帰ることに……帰りのバスもシビアだと思ってたら、Kさんが車で送ってくれることに。
浜松駅ビルの中で、Hさん、あやちゃんとわたし3人でご飯を食べながらガールズトーク(?)に花を咲かせ、東海道線でゆる〜りと帰りました。
んで。
16日は完全に疲れきって、本当になにもしないで……いやコミックを7冊ぐらい読んだか……1日中ぐだーっとしていた。
声、また壊れちゃった……
19日のUHUまでに回復するんだろうか……?
----------------
んで。
やっとタイトルの話に。(ここまでが長げーよ!)
この年になると、少しずつ「生きてる家族・知り合い」と「あっちにいる家族・知り合い」の比率が近づいてきちゃいます。
それだけではなく、はるか昔に亡くなった人たちの気持ちが、少しずつわかるような気がしてくるんです。
それは、場合によっては家族でも知り合いでもない人だったりします。
ここ数日、「お盆ネタ」で日記を書いてる人にわたしは反応しちゃっていましたが……
今この世にいない人の気持ちを思うこと、の大切さ、にふと思い当たりました。
そうして、これは生きている人でもそうだけど、相手の気持ちが「わからない」と、人はその相手に対して「恐怖」を抱くのではないか。
理解しにくい存在である、たとえば「幽霊」は、そんなわけで「恐怖の対象」となります。
生きていても、自分の想像が及ばない、という気がすると、そういう相手に対して気づかないうちに「化け物扱い」してはいないかな?
たとえば「男か女かわからない」とか……
理由もなく恐怖を抱かせられる存在に対しては、なんとかして排除したくなってしまうもののようです。
それが「差別」です。
ちょっとした想像力だけでいいんです。
今生きていない人だって、生きていた頃にはあなたと同じように呼吸をし、心臓が脈打ち、泣いたり笑ったり育ったり老いたりしていたんです。
性別のわからない人だって、あなたと同じように性別だけで生きてるわけじゃありません。
あなたと同じように「人間」として生きています。
同じ人間なので、考えることも大半はあなたと同じです。
違いはほんのわずかなのです。
……いや、それが言いたかったわけじゃなくて。
今生きていない人への想像力を働かせる。
それを、「祈り」と呼ぶのかもしれません。
過去の人を「見送る」祈り。
そういえば、未来に向かっての「祈り」もありますね。
この世界に平和な日が訪れますように。
それはまだ一度も実現されたことがないけれど、人類はばかではないので、何度も何度も同じ過ちを繰り返すのかもしれないけれどいつかは世界中のどこでも戦争の起きていない日、というのがやってくるはず、とわたしは信じています。
その始まりは、やっぱり「想像力」なのかなあ、と思います。
昔の言葉で言えば、「思いやり」。
この言葉は後に「予算」というのがくっついてからはすっかりマイナスイメージの言葉になってしまったけれど、元々は他者に対する想像力を表す、とても美しい言葉だったはずなのに……
歪んでしまったいちばん大きな理由は、「思いやり」が「思い上がり」になってしまうからでしょう。
他者に対していくら想像力を働かせても、完全に相手の気持ちを自分のもののように把握することはできません。
その限界を忘れて「あなたの気持ちはわかる」と言い切ってしまう時、それはちょっと危険な「自己満足」となってしまうかもしれません。
いつも「想像力」には限界がある、と自覚しながら、それでも相手に対して想像力を働かせ続けるのは、実はいささかしんどいことでもあります。
それはまさに、自分の無力さを確認する作業に他ならないわけですから。
だから、自分に自信がない時、余裕がない時は、想像力なんか切り捨ててしまいたくなる、あるいは限界があることを無視したくなってしまいます。
「思いやり」が「いちいち言わなくてもわかる」というもの、というある意味「思い上がり」に近いものにならないよう、コミュニケーションは欠かさないようにしたいものです。
でも、今はもう生きていない人々と、いったいどうすればコミュニケーションが……?
もう、言葉にはなりません。
木の葉の間から漏れてくる日差しとか、
夜電気を消して見つめる蝋燭の炎の揺らぎとか、
寄せては返す波の向こうに広がる水平線とか、
ヤツデの代わりに歩道に植えられているアロエとか、
川を吹き抜けてわたしの頬をかすめていく風とか、
そういったものから想像するしかありません。
そうして、わたしはそれをもとにして、歌います。
いつか、あの人たちに、この声が届くよう。
わたしの歌は、もしかしたら「送り火」のようなものなのかもしれません。
Posted by さとばな at 09:18│Comments(0)
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